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鴻八幡宮

TEL. 086-472-3125

〒711-0906 岡山県倉敷市児島下の町7-14-1

鴻八幡宮について鴻八幡宮について

鴻八幡宮

 鴻八幡宮は、約1300年前の大宝元年(701年)に創建されたと伝えられます。地元の総氏神としてこの地方に於ける信仰の中心であり、住民の心のよりどころとして崇められ、国家鎮護の神、厄除開運の神、殖産の神、更に最近では交通安全や安産の守神として広く崇敬されています。また古社八幡宮として鎌倉時代は歴代国司の崇敬はもとより地方官民の崇敬を集めていました。


ご祭神

鴻八幡宮随神門

 祭神は宇佐神宮より勧請した五柱で、譽田別尊(ホムダワケノミコト、応神天皇)、足仲彦尊(タラシナカツヒコノミコト、仲哀天皇)、息長帶姫命(オキナガタラシヒメノミコト、神功皇后)、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト、神武天皇の母神)、そして仲姫命(ナカツヒメノミコト、応神天皇の后)です。


鴻八幡宮の歴史

昭和10年ごろ

  鴻八幡宮は、大宝元年(701年)に創建された後、江戸時代中期、安永年間(1772〜81年)に本殿が改築されました。明治に入り、政府が神社の格についての制度を定め、鴻八幡宮は昭和19年、県社「鴻八幡神社」と改められましたが、昭和29年には「鴻八幡宮」に戻ります。
 のちに昭和51年に拝殿を、昭和56年に神門(隋身門。神社の門で、左右に武器を持った神像が置かれます)を改築して現在に至ります。


コウノトリの伝説

鴻の鳥

  鴻八幡宮の社名の由来については、備前藩古文書の『吉備温故秘録』『備陽記』に不思議な伝承が記されています。
 「この宮を鴻の宮と云う。昔この宮に大蛇がいた。又、宮山に鴻の鳥が多く巣を設け、社殿を糞で穢し、特に雛のいるときは参拝者は大蛇同様鳥も恐れていた。氏子供は嘆き、このままでは太鼓の音も絶えてわびしくなるばかりである。誠に御神力があるならば、この難から助け給えと祈った。するとその夜、氏子の夢の中に氏神が現れ、東南東の天を見るようにとお告げがあった。そこで氏子供は不思議に思いながら、神前に坐り、心を静かに待っていると、神殿が震動して大蛇が現れ、鴻の鳥の巣のある大木に登って行ったので戦いになった。鴻の鳥は次第に多く群れ集まり、遂に大蛇を突き殺した。それより、この宮を「鴻の宮」と云った。」


鴻の郷

境内からの眺め

  この伝説から、鴻八幡宮の氏子区域、即ち「上村」「下村」「田の口村」「引網村」(現在の上の町、下の町、田の口、唐琴)を鴻の郷と言うようになります。昭和となって地域の発展と共に社務所、神饌所、神庫等を新築し、境内を整備し神社経営の基礎を固め、昭和19年県社に昇格しました。
 明治の初めより産業、厄除けの守護神、現代は陸海空の交通安全、また安産の守神として信仰を集めています。


彫工慶尊の獅子

宗良親王より贈られた狛犬

  鴻八幡宮の中で最も古い獅子は、建武3年(1336年)に奉納されたものであり、この狛犬は令和5年3月に岡山県の重要文化財に指定されています。
 元弘の乱(元弘元年、1331年)の後、幕府に捕らえられた後醍醐天皇は隠岐に、宗良(むねよし)親王は讃岐に流されました。このとき宗良親王は鴻八幡宮に立ち寄り戦勝を祈願された後、讃岐に向かわれました。元弘三年(1333年)、鎌倉幕府が滅亡し、宗良親王は無事、京都に帰還されます。そして、この勝利は鴻八幡宮の神徳によるものとして、彫工慶尊に命じて一対の獅子を彫らせ寄進されたといいます。
 この獅子は御神体の守護の役目をもっていましたが、現在は文化財として保存にふさわしい場所に保管されています。


宗旨請状

寛文11年宗旨請状

 この書状は、寛文11年(1671年)に書かれた宗旨請状です。末尾の署名者に川本平大夫(社家、宮司河本平太夫藤原貞誠・寛文4年に宮司に就任)と田ノ口村庄屋茂右衛門の名前があります。これはある人物の宗旨(真言宗)と素性が明らかであることの証明を宮司と庄屋が連盟で記したものです。

-参考文献-
「琴浦の祭りとだんじり」 鴻八幡宮祭りばやし保存会編集委員会
「児島風土記」 倉敷の自然をまもる会


バナースペース

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